先日、ぼくの大好きなバンド「lyynch.(りんち)」のヴォーカル「葉月(HAZUKI)」さんと、「MUCC」のギタリスト「ミヤ」さん、「アリス九號.」のギタリスト「ヒロト」さん、そして「シド」のベーシストである「明希」さんの4人が、LUNA SEAの名曲「ROSIER」をカバーした動画をUPしてました。
それを聞いて思った、ぼくの率直な意見を書きたいと思います。
正直がっかり
率直に結論ファーストでいうと、「非常にがっかり」したってことです。
初めて断っておくとぼくは、カバー元である「LUNA SEA」をめちゃくちゃ好きで、そのLUNA SEAに影響を受けまくった「lynch.」というバンドも超好きで、何なら今となってはLUNA SEAよりもlynch.の方が好きってくらいなんです。
で、その中でもとりわけ葉月さんの「デスボイス / クリーンボイス」両方好きなんですよ。
けど、このカバー音源だと葉月さん、歌い方を大分「LUNA SEAのRYUICHIさん」に寄せてるんですよね。それがもう本当にがっかりで。
で、動画のコメント欄見ると「葉月さんのRYICHIリスペクトがすごい」とか「LUNA SEA愛が伝わってくる」とかそういうコメントで溢れてて、こいつら本当に音楽リテラシー低いなと思ってしまうわけです。
まあ、葉月さんのリスペクトが強すぎて「似せるつもりじゃなかったけどモノマネになっちゃった」とかならまだわかるんですけど、ここまで寄ってると、やはり意図的かなと思うんですよね。
だとしたら、「ちょっとそれ違いません?」って思っちゃうわけです。
「本家へのリスペクト」ってそういうことじゃない ⇒ カバーやトリビュートは「ぶっ壊さなければ」意味がない!
あのね、カバーとかトリビュートに於ける「リスペクト」って、必ずしも本家を忠実になぞることじゃないから。
何故ならそれはただの「コピー / モノマネ」であって「カバー」でも「トリビュート」でもない。
だって、本家と同じことを同じようにやる意味なんて無いじゃない。だってリスナーがわからしてみたら「じゃあそれなら本家聞くわ」って話だから。
どんなに優れたミュージシャンがやろうと、それは同じ。本家の音は「本家の人達」でしか表現できないわけ。だからその領域に踏み込むってことが、全く意味のないことなのよ。
で、やる側がそれなりにキャリアもプロップスもある人達なんだから、「その人達流の味付け」をしてくんなきゃ面白くないわけよ。
LUNA SEAの曲を「lynch.のヴォーカル葉月」が歌うのなら、「lynch.の葉月感」をもっと出してほしいわけ。要所要所でデスボを入れるとか、lynch.を歌う時と同じように歌ってほしいのに、なんで本家に「似せようと」するかね。
部分的なサンプリングとして「ここは絶対再現(マネ)したい」という意図で真似している箇所があると言うのならばまだ話はわかる。けど、そういう場合あくまで「サンプリング的(引用的)」でなければやはり意味は無いと思うんですよね。
なので、実力あるアーティストがリスペクトしているバンドの曲をリスペクトを込めてカバー(トリビュート)するのであれば、そのリスペクトの形は「おれならこう料理します」というアンサーであるべきだと思うんですよね。
「LUNA SEAを喰って血肉にして育って、ようやく今のこの姿になった私が、私なりの解釈でLUNA SEAをこんな風に料理したいです」っていって、大胆にアレンジを加えた方が、本家の人達も喜ぶと思うんですけど、どうなんですかね。
それこそLUNA SEAのギタリストのSUGIZOさんは昔、「学生の頃にLUNA SEAに出会って楽器始めました」って言われて、そいつが全然違うタイプの音楽をやっていたらめっちゃ嬉しい的なことを言われていましたしね。
※確かあれは「私がビジュアル系だった頃:市川哲史 著」という本の中だったと思うが、うろ覚えなのでちょっとニュアンス異なるかもしれない。
第一、何のアレンジもせずにそのままやるのは逆に失礼とすら思いますけどね。「え、何?お前らの方が本家のおれらより上手にできますけど、っていうそういうこと?」って思われかねない。でも「原曲と全く同じようにやる」ってそういうことでしょ?
これを仮に「モノマネ芸」とするならそれで全然いいと思うんですけど、そうじゃないなら逆にダサいのでやめてほしいなと切に思う。
そういう意味で、hideのトリビュートアルバムで「SIAM SHADE」が「ピンクスパイダー」をカバーしてたんだけど、あれも最悪だった。SIAMである必要性が全くなかった。
そう。結局「似せる・寄せる」意味の無さって、「その人がやる必要性がない」ってことになっちゃうからなんですよ。
繰り返しになるけど、「モノマネ芸」としてやるならそれでもいいけど、「カバー」や「トリビュート」としてリスペクトを込めて演奏するなら「自分たちの曲だと思ってやるべき」だと強くいいたい。
で、聞く側もそのことを理解するべきだ。
似せた・寄せたものを聞いて何を偉そうに「リスペクトを感じる」とか言ってんだよ。バカか。
「如何に近いものであるか」が評価基準になってる時点で、芸術を表面的にしか捉えることができていないってことだろうが。
「理解⇒解釈⇒考察」というプロセスを経ていないで、表面的な字面・絵面・輪郭しか捉えることができてない。
だって、「似てるかどうか」なんて音楽知らなくても誰でもわかるし評価できる要素だからね。
J-POPの誕生から34年位経過しているけど、こういうところで、日本人の音楽リスナーのリテラシーが低下の一途を辿っているということを痛感する。