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「言葉」を変えないと意識や行動は変えにくいと思いますけどねえ

大阪府議会の議会運営委員会の議長である森和臣(かずとみ)議長と三宅史明副議長が、議員に対する「先生」という呼称を使わないようにすることを提案した、という話がニュースになってましたね。

※ネタ元

産経新聞:産経ニュース

大阪府議会の議会運営委員会が21日開かれ、森和臣(かずとみ)議長と三宅史明副議長が、長年慣例になっていた議員に対する「先…

この手のニュースが出るたびに「そんなくだらないことを話し合うより他にもっと重要なことがあるだろう」とか言っちゃう人が、必ず一定数いるわけなんですけど、こういう人ってつくづく意識が低いなわかってないな、と思う。

何より、それを軽んじる人こそ「先生」って言われて正に勘違いしちゃうタイプの人なんじゃないの?って思いますね。

これを批判している人は「頭の悪い思考停止した人」だと思う

記事引用

大阪府議会の議会運営委員会が21日開かれ、森和臣(かずとみ)議長と三宅史明副議長が、長年慣例になっていた議員に対する「先生」という呼称を使わないようにすることを提案した。

森氏は議運で「『先生』は本来学校の先生など指導的立場にある方を指すもの」とした上で「議員に対して使えば府民との間に上下関係があるという勘違いが生まれてしまう」と提案の理由を説明した。

これに対し、「従来やめようという話をしてきたので賛成だ」などとおおむね賛同が相次ぐ一方で、「(本来、議員の身分に対する意識は)自分で律すべきもの。こんなことをルール化しないといけないのは恥ずべきことだ」と疑問の声も上がった。

各会派で持ち帰り、賛否を検討した上で28日に再度協議する方針。合意が得られれば、同日にも議員や府の職員らに「先生」の呼称を使わないよう求める通達を出す。

ぼく、不必要に相手を持ち上げる言葉とか過剰な賞賛とか大嫌いで、もっと具体的に言うと「中身の伴わないテンプレート化した言葉」ってのが大嫌いなんですよ。

で、件の「先生」という呼称についても、どうせ自然発生的に媚びる側のおじさんが「先生!」って言い出したことに起因すると思うんですよね。

で、それが定着してしまって、もうみんな「思考停止」でそう呼ぶことが当たり前になってきたと。

となると、そう呼ばれることが多い側としては、「それが当たり前な状況」になるわけだからして、正に問題点として危惧されている「勘違い」を生む温床に確実になってるわけですよね。

で、それに対して「(本来、議員の身分に対する意識は)自分で律すべきもの。こんなことをルール化しないといけないのは恥ずべきことだ」って言いますけど、そこで言う「自分」ってどっち?って話ですよね。「言ってる側」なのか「言われている側」なのか。

どっちにしたって、この件の方向性は「思考停止でそれが定着化・慣習化していることに対する問題視」なのだから、反論になってないんですよね。

故に「意識が低い」と思うし、有り体に言えば「バカなの?」って思っちゃうわけです。

もっと言えば、そこに理解も共感も出来ずに反論をしている時点で、その人も正に「思考停止」している状態なのだから、冒頭に書いたように「それを軽んじる人こそ「先生」って言われて正に勘違いしちゃうタイプの人なんじゃないの?」って話になるんですよね。

意識や行動を変えるには「まずは言葉」から変えるといい

ネタ元はよくわからないけど、自己啓発系の本とかでたまにこの言葉に行き当たることがありますよね。

「意識」が変われば、「態度」が変わる

「態度」が変われば、「行動」が変わる

「行動」が変われば、「習慣」が変わる

「習慣」が変われば、「人格」が変わる

「人格」が変われば、「運命」が変わる

「運命」が変われば、「人生」が変わる

ぼく、この言葉大好きで、実際そのとおりだなとも思うわけなんですが、ぼくの場合、更にこの1行目「意識」の前に「「言葉」が変われば、「意識」が変わる」を加えてもいいんじゃないかなとも思ってる。

実際、「言葉の使い方」を変えるだけで、それに対する意識の向き方は確実に変わりますから。

それを裏付けているのがぼくの場合「卒煙」なんですよね。

※関連過去ログ

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この中でぼくは、大前提として「タバコを辞めることを決して禁煙とは呼ばない」ということを徹底してきたし、それこそ「タバコをやめたいと思っている」という人には、正にこの点についての注意を促している。「間違っても【禁煙を始めた】なんて言うなよ?」と。

「禁煙=吸うことを禁ずること」であるからして、この言葉は「タバコを辞めること」とは意味が異なるのだ。

タバコをやめたいのならば、自分自身にタバコを禁ずるのではなく、「ただ単に吸うことをやめればいいだけである」という意識だけ持てればそれでいいんですよね。

加えて、禁煙を「始める」なんて間違っても言わない方がいい。

「始める」ということはいつかそこに「終わりが来る」ということであるからして、「禁煙」という言葉とセットになることによって「タバコのガマン期間が終わる」ということを潜在的に期待することに繋がってしまう。

つまり「禁煙の開始」とは、「ガマン=つらいこと」の終わりを期待させる言葉になってしまっているということだ。だから我慢する禁煙は失敗するのだ。

だが「卒煙=タバコを卒業する(吸うことを辞める)」と最初に言い切っておけば、そこに「何かの始まり」の意味はなく、「喫煙生活の終わり」以外の意味は存在しようがない。

だからこそ、自分の行動や習慣を劇的に変えようと思った際に、「言葉に対する意識」と言うのは非常に重要である、ということなのだ。

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