タイトルを見て「いきなり何を言ってんだ?」「道交法知らんのか?」と思う方も多いことでしょう。道交法が存在している以上、信号無視は立派な法律違反ですから。

ただ、一旦その縛りは置いといて、「そもそも我々が信号を守らなくてはならない意味とは何か」ってことを考えてみって話で。

そこを考えたら、「時と場合によっては律儀に信号を徹底して守る必要はない」ということがわかるはずです。

 無論、安全のため信号の存在は必須


自分が歩行者の時、明らかに車がどこからも来ない状態で信号を守る必要はないと思っているが、子供の前では信号無視しないって決めてる。

大人のマネをして斜め横断して思っきし撥ねられた事があるので。

午前11:29 · 2021年10月2日
●ネタ元

https://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/202110/0014726210.shtml

まず冒頭にも書いたけど、無論、大前提としては信号は守るべきなのだ。それを無視することによって事故に遭ったりすることもあるのだから。実際、ツイートにも書いたように、ぼくはそれで事故に遭ったこともあるし。

なので、この小学生の自由研究自体は非常に意義深いものではあるし、否定する気は一切ない。

だが例えば、明らかに見通しのきく道路で、視界に車が一台もなく、どう考えてもこの状況では逆に事故に遭う要素が、少なくともこの瞬間においては物理・量子力学的に考えて起こり得ないという状況の場合でも、あなたは信号を守るんですか?って話をしたい。


 「赤信号」で「思考が」停止しちゃってる


「ええ。私はその状況においても律儀に信号を守ります。だってそれがルールですから」と本気で言う人がいるのなら、ぼくから言わせれば非常に頭が悪いです。

じゃあこのような人は、例えば「いまこの瞬間、世界にはあなた1人しかいません」ということが約束された状況であっても、信号機が機能している以上、自分の進行方向上にある信号が赤を灯していたら、やはり一旦停止するんでしょうか?流石にしないですよね?

世界に今自分1人しか居ないという仮定自体が現実的じゃないとしても、今回のテーゼである「どこをどう見てもこの瞬間においては、車が飛び出してくる余地が物理・量子力学的に考えて有り得ない」というのは、現象としては先述の仮定と相似であるわけですよ。

そもそも「信号機」って、車と歩行者が衝突事故を起こさないために、双方が危険の無いように交互に道を渡り合うための、【両者に対する合図としてのスイッチ】なのだから。

つまり、「歩行者 / 車」いずれか片方しか存在していない状況下においては、信号機はもはや機能的役割を果たせていない状態とも言えるわけです。つまり、存在していないのと一緒ってことです。

にもかかわらず、律儀に赤信号で留まる意味は何ですか?

この問いかけに対して考えられる回答としては、「いやそれでもいつ車が飛び出してくるかわからないから一応」という、慎重を通り越して臆病な人もいるでしょう。

さりとて、普通に周囲を見回せば、そのリスクや可能性がどの程度のものかぐらいはわかるはずじゃないですか。

ぼくがさっきから出している仮定は、「どこをどう見ても車が飛び出してくる余地がこの瞬間においては物理・量子力学的に考えて有り得ない状況」なのだから。

なので、この過程に対して「念の為」というのは、やはり頭が悪いと言わざるを得ないでしょう。そして、それをも上回る最も頭が悪い回答としては、「それがルールだから」というものです。

状況の如何に関係なく、無条件で「それがルールだから」というのは、思考停止以外の何物でもない。「信号が赤のときは、いかなる状況でも一旦停止せよ」というif-thenルールをプログラミングされたロボットでしか無い。


 「ルールを守る理由」がわかってなければ、
 そのルールを守る意味なんて無い。


ここで、冒頭にて先述した、「そもそも我々が信号を守らなくてはならない意味とは何か」ってことを考えてみという原点に立ち返ってみてほしい。

「このルール(赤信号を守る)」という意味とは、正に言わずもがな「歩行者と車の接触を回避し、安全を確保するため」だ。

つまり、ルールの前提条件が満たされていない状況下においては「その限りではない」ということでもあるのだ。

にもかかわらず「ルール」を頑なに遵守する理由は何故か。それは「ルールは絶対」「ルールを守ることが正義」と勘違いしている人が多いからではないだろうか。

これは、ぼくから言わせれば、今日まで脈々と続く戦後民主主義による害悪な学校教育と、その社会性の中で育まれた同調圧力の産物でしか無い。

「みんながそうしているから、お前もそうしろ」という同調圧力を強いられることによって、「何故そのルールを守る必要があるのか」という本質的命題に向き合うこと無く、ただルールだけを守らされるという状態になっている。

「何故、ルールを守る必要があるのか」という問いに対し「それがルールだから」というのは、著しく論理性を欠いた、中身の無いただのトートロジーでしかない。

これこそが正に先述している「思考停止」ということだ。「ルールを守る理由」がわかってなければ、そのルールを守る意味なんて無い。

 まとめ


散々語ってはきたが、当然のことながら「信号遵守」は道交法によって定められている「法律」の問題であるからして、原則的に遵守しなければならないという大前提ではあるし、ぼくもそれは当然のことながら遵守している。

だが、今回ぼくが言いたかったのは、例として出した「信号遵守」に限らず、如何なる場合においても「それがルールだから」というのは理由にならないということだ。

ルールには必ず理由や意味が存在しなくてはならないのだから、その理由や意味を考え物事の本質を常に意識しようぜ、ということをぼくは声を大にして言いたい。というか、過去ログでも再三に渡って言い続けてきている。

つまり、「信号待ち」とは「信号が赤から青に変わるのを待つこと」ではなく、「歩行者 / 車が、それぞれの立場から、それぞれが安全に渡り終わるのを待つこと」だ。

それも含め、如何なる事象も「適切な場面において、適切な対応をする」というのが最も理想的な対応方法であって、全ての局面において必ずしもルールを遵守することが適切とは限らないのだ。

故に「ルール自体それのみ」を行動原理における根拠とするのは、理想的な適切性を欠く行為とすら言える。

「定規」のことを英語で「ruler(ルーラー)」というが、これはおそらくは「ルール」を語源とした言葉であることは間違いないだろう。つまりルールとはあくまで「目盛り(目安)」であり「基準」的なものでしかないということだ。

ルール自体に正しさや正義があるのではない。


RULE IS NOT JUSTICE