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「寄付」って結局はただの自己満足⇒「やらない善よりやる偽善」とか胸張って言う奴はただのバカ【リバイバル投稿】

旧ブログからのリバイバル投稿です。一部加筆修正があったりなかったりするけど、ほぼ当時のままです。
※2年前の今日書いた記事です。

どんなに崇高な目的があろうと、純粋な目的であろうと、「寄付」という行為は送る側にしてみたら結局の所「自己満足」ですよねって話。

それが良いとか悪いの話じゃない。「寄付」という行為そのものの本質について考えてみた時、結局行き着く答えはそこだと言うだけのこと。

なので、寄付をする側は、そのことを理解した上で行わなくてはならないとぼくは常々思っている。

あと、「やらない善よりやる偽善」とか本気で言う人いるけど、言葉を選ばずに言うと、この意見を言う人ってマジでただのバカだと思う。

というお話です。

やらない善よりやる偽善?⇒結局ただの「偽善」だろw

●元ツイート

「寄付」は常に正義なのか。
世界に多くの課題があるなかお金をどう使うのか。
寄付じゃなく、普通に使ったり、貯めたりすることで、更に大きな社会貢献が出来ることもある。
結局、寄付にしろ、他の使い方にせよ「自己満足」でしかない。

人に価値観を押し付けず「やりたいからやる」で良い。

●引用リツイート
ほんこれ。どんな大義名分があろうと結局は「自己満」

こーゆー時よく「やらない善よりやる偽善」みたいなことを言うバカが必ず一定数いるけどこれこそ正に自己満の極みだと思うがね

「相手側の都合や状況」を一切考慮しない寄付的行為が時に相手を苦しめることにもなるっていう発想がなければ無意味

続いて2つツイートしました。

 

けどどんなに配慮をしたところで100%の補完なんて出来ないんだから、結局の所どんな形の善行であろうとそれは「自己満」にしかならない

まずはそれを理解した上でなければ何の意味もない

相手の襟首や胸ぐら掴んで「やらない善よりやる偽善」って無理やり食わせることは寄付や善行とは呼べないよ

午前8:36 · 2020年5月22日
心の底から「助けたい」と思っても、それはその人のための行為じゃないのよ

自分が力を貸して相手を救おうとすることで「自分が救われたい」というだけのもの。つまり「自分のため」ってこと

なので、人は本当に誰かのためだけに何かをするということは出来ない。全て自分のためにしていることなのよ

午前8:36 · 2020年5月22日

とまあこんな感じで、言いたいこと殆どツイートに書いちゃったんだけども、寄付とか善意・善行ということについては、上記の通り。

で、今回ちょっと追記したいのは、「やらない善よりやる偽善」ってやつ。これをドヤりながら言うやつってまじでクソ頭悪いと思うんですよ。

 

目的と手段の逆転化による意味の無さ

「やらない善よりやる偽善」って一言で言うならそれってただの「目的と手段の逆転化」だよねって話。

正にツイートでも言及したように「ただの自己満足の極み」でしかなく、対象となる人の現状や都合や痛みを一切想像していない、至極独り善がりな行為でしか無いと思うんですよね。

結局こーゆー人って「兎に角、寄付なり何かをするっていう行為」ばかりにフォーカスしちゃってるんですよね。善意をもって取った行動に間違いがないと信じて疑わないんでしょうねきっと。

それがバカだって言ってんの。

本来的には、困っている人を助けようと思った時に、本当に助けたいと思うのならば「何を与えるべきか」を考えるのではなく「何が彼らにとって負担や苦にならないか」を考えるべきでしょうよ。

「何かをするべき・与えるべき」って考えてる時点で、相手のことよりも自分視点でしか状況を見れてないってことでしょ。

もっと言えばその行動原理は、「自分の善行によって相手の助けになれたなら、自分の心理的不安・負担が減る・安心する・気持ちよくなる」ということでしょう?

だから「自己満足の極みだ」って言ってんの。

それで結果、実際に相手にとってメリットが生じれば全然それでもいいと思うんですよ。てゆーか、元ツイートのまこなり社長も正にそういう前提で言ってると思うんですよ。

けど、そうじゃないことが多いからこういう論争が起きるんだよね?って話。

「何もしない」という行動もあることを知れ

逆に「自分には何も出来ることがない」と思ったのならば、極論何もしなくたっていいんですよ。「何もせず見守る」ということは何も悪いことじゃない。

・少なからず興味関心を持って気にかけた(考えた)
⇒でも自分には出来ることはなかった。
⇒何もしないでおこう。

これって、十分相手のことを考えた上での「今回は何もしないでおくという行動」じゃないですか。善行をおこなう上で一番忘れちゃいけない本質って、こういうことだよ。

自分がもし、食べ物や衣服がなくて困っている状況下にあるのに、どこの誰かもわからんやつから大量の「千羽鶴」が贈られてきたらどう思うか考えてみろよ。

一時一瞬だけ温かい気持ちにはなるだろうけど、食べられないし着れるわけでもなくめちゃくちゃ嵩張って何の役にも立たないけど、好意として頂いている以上、すぐには捨てられないし「要らねえよ」とも言いづらい。

これってめちゃくちゃストレス溜まると思わないか?

同様に、かつて「伊達直人」名義で児童施設みたいなところにランドセルを名無しで寄付するという、通称「タイガーマスク運動」なんてのも流行ったけど、これもバカの極みだと思う。

いかにもタイガーマスク世代のおっさんが考えそうな頭の悪い発想で、もっと言うなら風俗嬢やキャバ嬢に説教しているのと大差ない。

もうね、ここまで来るとただの迷惑行為だし、ある意味不法投棄ですらあると思う。

根幹にあるのは結局「相手を下に見ているから」

結局「やらない善よりやる偽善」の根幹のマインドって、無意識的に「自分と弱者」と言う風に相手を下に見てるからではないのかね?

だから「寄付」とか「善行」という大義名分のもとに弱者に対してマウントを取り、「やらない善よりやる偽善」を合言葉に、「善意」と言う名のまんじゅうを相手の口に無理やり押し込むような真似をしている。

そんな風に相手の口に無理矢理突っ込んだら、喉詰まらせて死ぬってわからんかね。

これってクソダサいと思わないか?ぼくは死ぬほどダサいと思う。なので、まかり間違っても「やらない善よりやる偽善」だなんて今後口にすることはありえない。

ぼくなら「偽善やるなら、やらない善」だ。そもそも「偽善」って言われている時点で、そこに誠実さなんてないのだから、そもそも「偽善に最初から意味なんてねえ」んだよ。

「思いやり」の無い善意に価値はない

「善意」を持つことは大事だが、その上での行為が「必ずしも相手の為になるとは限らない」って話だ。

何かをおこなうなら、それで迷惑にならないか、かえって苦しめないかをしっかり考えてやるべきだ。

思考停止している人間の善意の行動なんて、クソほどの役にも立たないってことだよ。

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